【付記】2章19節「神に生きる」について:パウロとユダヤ教との違い
「神に生きる」とあることについては、ルカ福音書20章38節に「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」とあります。訳し直すと「神は死んだ者ではなく生きた者と共にいる。だから人はすべて神に生きる者である」となります。ここは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」が、人を復活させる場合にどのような状態になるかについてイエスが語っているところです。「すべての人」とは、族長たちを含めて「神に生きる」すべての人たちを指すのでしょう。ルカのこの節は、直接にパウロ的な意味での「死と復活」を述べたものではありません。この節の出所は、第四マカベア書(7章19節)で、そこは、拷問にも負けず「律法にかなった生涯」を全うした老人について述べています。そこでは「ただ心から信仰に心を用いる人、かかる人のみが、われわれの族長アブラハム、イサク、ヤコブのごとくに、神にあって死ぬことはなく生きる、と信じているゆえに肉体の情念を支配することができる」とあります。さらに同書16章25節には、母が息子に「神の命令にそむくよりは死ぬように」説得した後で、「神のゆえに死ぬ者は、アブラハム、イサク、ヤコブおよびすべての族長たちのように神にあって生きる」と言うのです。
すなわちここでは「律法に従って」神のために死ぬ者が、「神に生きる」者とされると語られているのです。こういう律法観はおそらくクムラン宗団の場合にも共通するでしょう。ただし、ここで言う「律法に従って」死ぬこととパウロの言う「律法を通して」死にいたることとは、「律法」に対する見方が逆転しているのに注意しなければなりません。。いったいパウロとマカベア書とはどこが違うのでしょうか?
マカベア書やクムラン宗団で語られている殉教者たちは、律法に従い、これを守り抜くことで殉教し、そのことが「神と共に生きる」道となりました。これなら、パウロを批判するユダヤ人もユダヤ主義的なキリスト教徒たちも納得できたでしょう。ところがパウロが言うのはそうではありません。彼が「律法を通して」と言うのは、殉教者が「律法に従う」ことと同じではないのです。律法に「従う」とは、律法を信じて律法を貫徹することで「律法に生きる」ことです。しかしパウロが「律法を通して」と言う時、彼は「律法の諸行」のことを語っているのです。この場合は、律法の諸行を通じて、律法が、人間への裁きとなり、断罪となり、ついには死にいたる「罪の呪い」となることが露わになるのです。マカベア書やクムラン宗団の場合は、律法に信従することによる殉死が神に生きることへと直結します。しかしパウロでは、律法を通して律法の諸行に歩むことで死にいたっても、そのことが直接神と共に生きることにはつながらないのです。
マカベア書の殉教者たちは、律法に殉死することで、すなわちどこまでも律法に「生きる」ことで神に生きる者となりました。ところがパウロが「律法によって」と言うのは、律法の裁きによって「死ぬ」ことですから、マカベア書の殉教者たちとパウロとでは、「律法に従って生きる」ことと「律法の諸行によって死ぬ」こととが対立し、「律法に殉死」して神に生きることと律法に対して死ぬことで「律法から解放される」ことによって神に生きることとが対立するのです。これが、パウロとユダヤ教徒との律法に対する見方の違いであり、同時にパウロと律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちとの違いなのです。