(13)福音の奥義
エフェソ6章19節
 
また、わたしのためにも祈ってほしい。
口を開いてみ言を語り
大胆に福音の神秘を
知らしめることができるように。
 
■啓示と聖史
 作者は、エクレシアの人たちの戦いが、人間の力の及ぶところではない霊力との戦いであると告げてから、戦いの武具を列挙し、その締めくくりに「福音の奥義」を大胆に語ることができるように祈ってほしいと求める。人間の力が及ばない世界とは、黙示思想が伝える霊的な世界のことである。「黙示」とは「アポカリュプシス」、すなわち「啓示」を意味するから、黙示文学は啓示文学と言い換えるほうが分かりやすいかもしれない。
 霊的な世界が啓示されるとは、霊的な世界が「客観的に」存在していることを指しているから、個人の主観だけでは全く無力な世界が現実に存在すると覚知することにほかならない。このような霊知は、啓示されることで初めて、客観性を帯びる。集団にせよ個人にせよ、人間の主観の世界だけではどうにもならない絶対の世界が「アポカリュプシス」されることである。現代の歴史観から見れば、このような霊的な世界は、神話的な世界像だとしてしか認識されえないであろう。
 ユダヤ教の「律法」は、詩編19篇が証しする通り、ほんらい自然界と人間界とが一つの主客一如の世界を支配する神の「トーラー」(律法)であった。啓示は、これを受けた人とこれを理解できない人との間に溝を作ることがノアの洪水伝承からも知ることができる。聖書が「愚か者」と言うのは、この霊的世界を覚知できない霊盲の人たちを指す用語なのである。だから、啓示とは何か?」と問われるなら、これを現代の哲学的な言い方で「主観と客観とが一つの世界」と言い換えることができよう。それは「主客一如」の世界が存在することでなければならない。
 この「主客一如」は、同時に「時空一如」へつながらなければならない。時空一如とは<動く>所に成り立つ。現代の物理学は、運動が、時間と空間を「歪める」ことを実証した。だから、もしも人間が光の速さで動くことができれば、過去の世界へさかのぼることができるという不思議が可能になる。だとすれが、主客一如と時空一如に関係している啓示は、過去だけではなく未来をも知ることができるのではないか?「主客一如」は「時空一如」と合わせられなければならない。
 この考察から言えること、それは、ナザレのイエスという個人に啓示された霊的な世界、すなわち「福音」が、その十字架の死を転機にして、彼を信じる人たちにも啓示され続けていくことで広がることであり、その結果として成立したキリストのエクレシアである。このことは、現在わたしたちが「主観」と見なしているイエスの霊性が、実は客観的に存在する世界を指示していること、したがって、イエスの周辺にいた弟子たちだけではなく、時間的な経過に沿う未来の信者たちへも伝わり受け継がれることを指す。
 このように哲学することで初めて、ナザレのイエスという一個人に啓示されていた霊的な世界が、コロサイ人への手紙やエフェソ人への手紙の作者と、これらの書簡の受け手にも啓示されることが可能になるのであろう。このようにして、エクレシアに「パントクラトール」(全能者)イエス・キリストが知られるのであろう。だから、パントクラトールなるキリストの世界が、ナザレのイエス個人への啓示から、幾十年かの過程を経て、ようやくエフェソ人への手紙の作者にも啓かれたことになる。これが、エフェソ人への手紙、あるいは、コロサイ人への手紙が言う「キリストのエクレシア」の世界であり、このキリストは、ビザンティンのキリスト教へ受け継がれ、現在のギリシア正教とカトリック教会へ継承されることになる。
 この時空一如・主客一如の世界は、時代の経過に伴って「主観」と「客観」の区別を徐々に強めていき、ついに両者は"subject"(主体/主観)と、これに対立する"object"(対象/対立)とに分離されるにいたる。これが、「近代」(モダン)すなわち16〜17世紀以降に起こったことである。いわゆる「科学的な」思考の始まりがここにある。主観と客観との分離の結果、欧米世界では、主客一如の世界が現に存在することが「見失われる」ことになった。この間の事情は17世紀の「心霊学」"pneumatology" が現在の「心理学」"psychology" へと移行する過程と重なる。キリスト教神学の世界では、これが、ファンダメンタリズムと現在の歴史的な文献批評を伴う聖書学との間の亀裂として、現在のキリスト教世界に大きな陰を落している。主客はほんらい一つのものとして実在するのに、両者がほとんど対立関係に陥っているからである。このために「主」と「客」の双方に誤りが生じる結果になった。
 エフェソ人への手紙の作者の描く「神話的」な宇宙観も、プトレマイオスの天動説に基づく中世ヨーロッパの宇宙観も、近代から現代にかけて知られてきたニュートンの古典物理学の宇宙観も、現代のアインシュタインの相対性原理の宇宙観も、さらには、まだごく一部の人にしか知られていない粒子物理学の宇宙観も、人間の思考的な営みとして見るならば本質的に変わらない。だから、わたしたちが、古典物理学の宇宙なり、相対性原理の宇宙を自分個人の存在とは別個に存在する客観的な世界だと考えるのも、エフェソ人への手紙の作者が想い描く天体とそこに存在する悪霊の世界が、自分たち人間とは別個に存在すると考えても、人間の意識としてみれば本質的に違いがない。
 ただし、現在わたしたちが、人間と宇宙とを主体と客体との対立関係においてとらえているのに対して、エフェソ人への手紙の作者たちは<そのようには>とらえていない。エフェソ人への手紙の作者は、天体を含む宇宙が、人間に直接「影響する」存在だと見なしている。そこには、純粋な客観性も純粋な主観性も存在しない。存在するのは「主客一如」の世界なのである。
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